【村上龍さんの言葉】
1970年代以降受験競争に偏差値が君臨し、その弊害があちこちで指摘されて90年代からゆとり教育が始まった。だが学力の低下が問題となり、ゆとり教育はその元凶だとして廃止され、その功罪と是非の議論はいまだに続いている。ゆとり教育と学力重視教育のどちらがいいのかという議論には、わたしはほとんど意味がないと思う。
問題はただ一つ、わたしたちは、子どもをどんな人材に育てたいのか、ということだろう。だがそんな議論は起きる気配がない。どんな人材が欲しいのかという問いは、どんな社会にしたいのかという問いと同じだし、あなたはどんな生き方をしたいのかという問いとも重なる。
近代化から高度成長まで、日本の教育は画一的な「兵士と工場労働者と役人」を育てるためのもので、それがあまりに自明で、しかも長期間続いたために、時代状況が変わってしまったことは理解できても、対応がわからない。
犠牲になっているのは、旧態依然とした教育カリキュラムとシステムの中で、実際的なトレーニングとは無縁なまま社会に放り出される圧倒的多数の若者たちだ。彼らは、たとえば我慢が足りないと避難される。だが、じっと我慢していれば会社で給与が上がっていった時代はとっくの昔に終わっている。
全体のほんの数パーセントの専門職以外、若者たちが希望を持って働ける職場はない。だが不思議なことに、無能な大人の犠牲となっている若者たちはほとんど怒りや講義の声を上げることがない。日本の教育は、時代状況からずれているだけではなく、若者の生命力を奪っているのだと思う。
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